ただいま、おかえり、わたしの愛し子
初めての実習で、思わず手にしてしまった苦無。
町人を誘惑し、今まで習ったことを実践する。ただそれだけだったのに、目の前に広がる赤は一体どういうことなのだろうか。
さして傷をあたえるわけでもない苦無でここまでの返り血を浴びることとなってしまった。
無感情、無関心、そして、……。
「ああ、やってしまったのか」
扉を開けなくする為に置いてあった新開棒がいつの間にか外され、この家の扉に立っている人物がいた。
虚ろな瞳で見つめる。誰なのだろう。それを考えることすら今の自分には面倒である。
半分ほど着物が脱がされていたがそれを直すことも億劫だ。
「何か過去にあったのか、小平太。いや、言えぬか」
名前を呼ばれたので顔を上げる。
過去? 過去とはなんだろうか。この状態を私は前にも見たことがあるとでもいうのだろうか?
黒く、暗く、そして、不快。
男が手を伸ばしてきたので、手に持った苦無で斬りつけるようとするが、あっさりと取られてしまう。
「着物を直すだけだ。何もせんよ」
乱れた着物を直され、男の懐から出された手ぬぐいで顔を拭かれる。返り血が落ちないからか、力がこもっていた。
「余計に赤くなるだけだな」
頭をなぜられ、抱きかかえられる。
(ただいま、おかえり、わたしの愛し子)
耳元で穏やかな声でそう言われ、私はそこで、やっとこの男が実習の担当教師であることに気が付いた。